RATHBONE, Eleanor Florence (1872-1946)


生涯

社会改革家。1872年5月12日、ロンドンに生まれる。父親はウィリアム・ラズボーン(1819-1902)、リバプールの著名な改革派一族で、この名前をもつ者の6代目。母親はウィリアムの二人目の妻であるエミリー・ライル。エレノアは末っ子の一人娘であった(ウィリアムの家族は10人の子供がいた)。ウィリアムは多年にわたって国会議員であった。そのため、エレノアは子供のころからリヴァプールのフィランスロピ活動の雰囲気とウェストミンスタの政治的環境を相互に経験しながら育った。幼少の頃の教育は、リヴァプールとロンドンを往復する生活だったため、しばしば中断された。ロンドンではケンジントン・ハイスクールで学んだ。エレノアはサマヴィル・カレッジ(オックスフォード)に進学し、成績はセカンド・クラスである。ケンジントン・ハイスクールの教育は、オックスフォード流の人文教育にとっては不十分だったのかもしれない。彼女自身は純粋哲学を志していたようだが、リヴァプールへ戻るとすぐにその熱意は失せてしまった。彼女は不幸のどん底におかれた人々の苦しみに敏感だったこともあり、同時代の行政、政治、経済問題に強い関心をもつようになった。

寡婦調査

オックスフォードを卒業して以後、エレノアは多彩な活動を展開したが、その中に救貧法制における寡婦の位置づけに関する事実調査がある。この調査は、のちに家族手当の提案にいたる家族の経済分析の第一歩であった。家族手当の構想が浮上したきっかけは、大戦中に留守家族手当の支給に関係する行政事務を行なった経験が大きかった。いずれにせよ、彼女は家族手当の主唱者となり、1924年に出版されたThe Disinherited Familyは、この問題を論じた最初の教科書とみなしうる。1940年に、彼女はThe Case for Family Allowanceを出版した。1945年に法制化されるにいたった家族手当制度の構想が彼女のもっとも大きな功績であることは間違いない。しかし、エレノアの活動分野はきわめて多彩だった。1918年に婦人参政権が限定的に認められるまでのあいだ、彼女は婦人参政権運動で指導的な役割を果たした。1919年、エレノアはフォーセット夫人のあとを継いで、婦人参政権運動の立憲派のリーダーとなり、この運動を母体にして女性の経済的法的地位向上のために数々の立法改革を要求した。リヴァプールでは1909年に市議会議員に選出されている。彼女は無所属議員として戦間期の住宅政策に取り組んだ。

フェミニスト

彼女の関心はフェミニズムと社会行政の分野に限定されたわけではないが、彼女の名前が世に知られるようになったのは1928年、すなわち女性が男性と対等な投票権を勝ち取った年である。ちょうどこのころ、多くのインド人女性の悲惨な生活実態に関心がむけられるようになった。その関心は、インドのみならず他の英連邦内諸地域の女性の状況へと広がっていった。エレノアによると、国会議員への転進を求めた主要な理由はここにある。もっとも、彼女は無所属で立候補したものの 1922年の選挙で落選している。1929年、彼女はイングランド連合大学選挙区で無所属で立候補し、議員に選出された。エレノアは生涯、この選挙区の議員職を保持し続けた。1935年には対立候補が出ることなく再選されtが、1945年の選挙では選挙戦を余儀なくされた。彼女は大学選挙区の存在意義を強く主張し、この種の選挙区は政党政治と距離をおくべきであると考えていた。この選挙区有権者の固有の問題に絶えず関心を払う一方で、彼女の政治的関心は次第に海外の諸問題に向けられるようになっていった。インド統治法の制定にいたる審議の過程で、彼女はインド女性への参政権付与の論陣をはった。1934年に出版されたChild Marriage: The Indian Minotaurは、この種の悪弊を防止するためにサルダール法の強化に尽力したキャンペーンの産物である。対外政策においては、エレノアはつねに集団的安全保障の強化を支持した。1931年から1939年までのイギリス外交政策の趨勢からすると、彼女は絶えず与党側と激しく対立することを余儀なくなされた。彼女はいわゆる段階的な「宥和政策」の考え方を厳しく批判する文章を書き、演説を行なった。イタリアのエチオピア侵攻、スペインにおける「不介入」、ロシア孤立化といった外交政策上の問題について彼女が何を考えていたのかは、1937年の夏に書かれたWar Can Be Avertedの中にみることができる。こうした外交政策論争と並行して、エレノアは第二次世界大戦の前から対戦中にかけて、難民保護のために飽くなき努力をしている。多くの時間が救済計画の組織化に向けられ、個人救済の活動にも自ら加わった——これらの活動を通じて、彼女は多くのユダヤ人と接触し、次第にシオニズムへの共感を強めていくことになる。戦後のヨーロッパ復興に関心を向ける一方で、彼女の最後の政治的関心事となったのは、パレスチナ問題の行方である。彼女は死ぬ間際までこの問題に没頭していた(1946年1月2日にロンドンで死去)。エレノアは1931年にリヴァプール大学より名誉博士号を授与され、1938年にはオックスフォード大学も彼女に名誉博士号を授与した。また、彼女は王立統計協会のフェローに選出されている。サマヴィル・カレッジには、ジェームズ・ガンによる肖像画がある。

党派的中立

生涯を通じて、エレノアは党派からの中立を保ち続けた。哲学的リベラリズムを背景としてもちつつも、彼女は社会サービスの拡充を支持した。しかし、彼女は社会主義に関心をもったことはない。1918年以前、リヴァプールが彼女の故郷であり、彼女の主要な活動の場であった。そのご彼女はロンドンとリヴァプールを往復する生活に身を投じたのち、国会議員としての活動が増大するにいたって、ウェストミンスタ近くの小さな家が彼女の活動本拠となった。友人とシェアしていたこの小さな家は1940年の空襲で破壊されたが、その後も彼女はロンドンで生活を続けた。イギリスの家族手当制度発足は明らかに彼女の功績である。しかし、それ以上に彼女は傑出した知性と学識、飽くことのないエネルギー、人々の不幸な境遇にたいする得意な感受性をあわせもつ才人であった。


  • DNB
  • The Times, 3,4 and 8 January 1946; Observer, 21 Februrary 1943
  • Mary D. Stock, Elenor Rathbone: A Biography, 1949.
  • J. Albert, Elenor Rathbone, 1996.
  • J. Lewis, “Elenor Rathbone”, in Paul Baker (ed.), Founders of the Welfare State, 1984.
  • S. Marriner, Rathbone of Liverpool 1845-1873, 1961.
  • S. Pederson and P. Mandler, After the Victorians: Private Conscience and Public Duty in Modern Britain, 1994.
  • M.B.Simey, Elenor Rathbone 1872-1946: A Centenary Tribute, 1974.
  • Olive Banks, The Biographical Dictionary of British Feminists, 1985.
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