HILL, Octavia (1838-1912)


生涯

ウィスベック生まれのフィランスロピスト。穀物商で銀行家でもあったJames Hillの8番目の子として生まれた。Jamesは熱心な社会改革家、教育改革家としても著名であった。母親はCaloline Southwood Smithで、彼女はThomas Southwood Smith博士の娘である。Thomas Southwood Smithは医学者であり、伝染病予防と公衆衛生改革の権威である。オクタヴィアは若いころに、この祖父から強い影響を受けた。彼女が貧困層の住環境の劣悪さについて知り、それに関心をもつようになったのも、祖父の影響による。オクタヴィアを含め、娘たちを教育したのは母親であり、彼女は女性もまた経済的に自立して生きることを選択すべきであると考えていた。幼少時代のオクタヴィアは活発で意志が強く、鋭い感性をもち、芸術の才能に恵まれていた。1852 年にロンドンへ出てレディーズ・ギルドで活動を開始した。この団体はキリスト教社会主義者の団体であり、母Calolineが運営に関与していた。オクタヴィアは貧民学校の子供たちに玩具の作り方を教える部門を任された。彼女にとって、極貧層の生活を目の当たりにした最初の経験である。この時期、彼女はごく自然にキリスト教社会主義の思想、とくにFrederick Denison Mauriceから強い影響を受けた。彼女の人生を左右するほどの影響を与えたものがもうひとつある。John Ruskinの影響である。Ruskinと初めて出会ったのは1853年で、オクタヴィアの芸術的才能を開花させたのはRuskinであった。その後の数年間、彼女は絵画の模写に多くの時間を注いでいる。

住宅改善運動へ

1856年、オクタヴィアはグレート・オルモンド・ストリートにある「労働者カレッジ(Workmen's College)」で開講されていた女性のためのクラスの事務管理の仕事を始めた。それから数年後には、ノッティンガム・プレイス14番地に、姉妹たちとともに学校を開設している。オクタヴィアが住宅問題が急務の課題であることを強く印象づけられたのは、ちょうどこの時期のことである。1864年、彼女は Ruskinを説得して、貧困層の住宅改善プランへの財政的支援をとりつけることに成功した。後年の彼女の回想によると、「たんなる構想」にすぎなかったものを実現できたのは、まさにRuskinの寛大な財政支援があったからであり、一時期、Ruskinとの交流が途絶えたことはあったが、Ruskinにたいする忠誠心と感謝の気持ちは生涯動揺することはなかった。1865年に彼女は友人への手紙の中で次のように述べている。

最近のすばらしい出来事は、何といっても私たちの住む近所の一画に三軒の家を購入できたことです。それはラスキンのおかげに他なりません。賃借人も含めて引き継ぐことになっていますが、現在はそれぞれの家に家主がおり、私たちと週単位でそこに住む間借り人のあいだに入っています。どうやら、ミッドサマーまでは彼らを排除できそうにありません。ですから、私たちにできることといえば、私たちの階級がもっと賃借人のことに目を向けるようにすること、些細な事でも個人でできる仕事を彼らのあいだですること、彼らを知ることにつとめることです。建物を修繕し、密集を予防し、評判のよくない間借り人を排除する仕事はミッドサマーまでおあずけです。そのときになったら、みすぼらしい部屋を改築して大きな部屋にして、賃借人たちがありとあらゆる目的で使えるようにするつもりです。今はまだそれが無理なのです。

投資額の5パーセントを支払う用意があるなら、住宅改善活動をビジネスベースで展開し、他の投資家の支援を仰ぐことができるだろう、そうヒル女史にアドバイスしたのもRuskinだった。このアドバイスは正しかった。ヒル女史はマネジメントの手腕を発揮し、管理下の貸家を次々に増やしていった。彼女の援助を求めたのは家主たちであるが、それだけではない。彼女の活動の真価を見抜いた多くの人々が多額の資金を提供し、彼女はそれをもとに極貧層のための貸家を購入および新築を行なった。1899年に彼女は次のように書き記している。「資金が不足しているがために活動が遅延したという経験は一度もありません。私たちにはつねに豊富な資金があります」。おそらく彼女が引き受けた仕事でもっとも重要だったと思われるのは、1884年の国教会教務委員会によるサウスワークにある物件の管理依頼であろう。その後、教務委員会は多くの物件の管理を彼女にゆだね、改築にさいしても彼女の助言を求めるようになっていった。

事業の拡大

仕事の量が格段に増大したため、彼女は美術を教える時間がほとんどなくなった。1874年に、将来にわたってヒル女史が生活のために仕事をすることから解放する基金を、友人たちのグループが設立した。こうして、彼女は住宅改革の活動に専心することができるようになった。しかし、こうした援助があったにせよ、彼女の負担は相当に大きかったようである。彼女は何度か健康を害し、完全休養を余儀なくされた。1877年に彼女は友人とともに大陸ヨーロッパの長い旅に出ているが、その背景にもそうした事情があった。同行したのはヨーク女史で、二人は生涯を通じて、公私共に協力し合うことになる。

長期にわたってイングランドを離れることになったため、ヒル女史は仕事上の権限を、それまで彼女が訓練してきた活動家たち、姉妹たちに委ねる必要があった。サポートしてくれる活動家たち自身が責任意識をもち、イニシアティブをもつように努力すること、これがヒル女史の方法の典型的な要素である。仕事量の急速な増大が、こうした真実の意味における協働の精神と密接不可分であることは明白である。ヒル女史の評判は離れた地域にも及んだ。こうして、彼女の貸家管理の方法は、英国内のみならず、アメリカ合衆国やヨーロッパ諸国にも浸透していった。ベルリンには「オクタヴィア・ヒル協会」が設立された。

ナショナル・トラスト

ヒル女史の影響は住宅改革の分野だけにとどまらなかった。極貧層にたいする経済的支援策で、彼女の関心を惹かなかったものはほとんどないくらいである。彼女は設立当初から「慈善組織協会」の積極的な支援者であったし、しばしばこの協会の原則について、文章を書いたりスピーチをしたりしている。しかし、とくに彼女が心血を注いだのは、人々が自由に利用でkるオープン・スペースを保護・維持する活動である。彼女はカーライル協会(彼女の姉妹であるミランダが 1877年に設立した団体)の活動に協力し、「共有地保護協会(the Commons Preservation Society)」に加入した。さらに、H.D.RawnsleyやSir Robert Hunterとともに、歴史的名所や自然的景観にすぐれた場所の保護と維持のために「ナショナル・トラスト」を設立した。大小さまざまなオープンスペースが公衆の利用に供されるようになったのは、彼女たちの努力によるところが大きい。

救貧法問題

オクタヴィア・ヒルは社会改革立法の推進にあたってもしばしば助言を求められた。ただし、彼女自身は政府の立法改革よりもボランタリな活動の価値を重視していたし、むしろ政治的な施策に協力することを躊躇した。しかし、ひとつだけ例外がある。1873年にヒルは慈善組織協会とともに積極的なプロパガンダを行なったことがある。これは、1875年の職人住居法の制定につながったプロパガンダである。それでも、1889年に王立住居法問題調査会への任命を断っているし、1905年の王立救貧法問題調査会にも参加を打診されたものの、調査会が実のある結果を生み出すとは思わなかった。もっとも結局、困難を伴う調査会委員の職を引き受けざるをえなかった。彼女は、1893年の王立老齢者問題調査会でも貴重な証言を行なっている。

評価

ヒルの生涯でもっとも重要な要素のひとつは姉妹たちとの協力関係である。一緒に暮らしていたミランダは1910年にこの世を去り、オクタヴィアもまもなくこの世を去った(1912年8月13日)。オクタヴィア・ヒルの業績はどのように評価されるであろうか。彼女が改善しようとしていた状態がどのようなものであったか、また彼女が採用した方法がどのようなものであったかを思い起こす必要がある。1899年にヒル女史は次のように書いている。

私が活動をはじめたメリールボーンでは、すべての家族が住居を賃借してはいるものの、一部屋に家族全員が暮らしていた。今では二部屋、三部屋からなる住居が数多くある。…当時、衛生の観念などまったく彼らに浸透していなかった。…建築関連法も健康を維持するために何が必要かをほとんど認識していなかったし、衛生関連の施策もまったく施行されなかったし、強制力すらもたなかった。…原因はこれ以外にもあるだろうが、ともかくこうした理由で、1864年のロンドンの路地は、現在ではとても考えられないほど荒廃し不潔をきわめていた。…この状態を何とかするために、今では聡明で意欲的な多くの団体が協力してやってくるれるようになった様々な仕事を自分で引き受けなければならなかった」。貸家のあるべきマネジメントの内容として彼女は次のようなことを列挙している。「効果的かつ早めの修繕、厳密な帳簿の作成、人物調査の徹底、入念な清掃、現金支払の周知徹底、そしてとりわけ互いに協力的であるような賃借人の厳選。

有能な管理人は財政や会計、ロンドンの複雑な租税・地方税体系について十分な知識が求められ、賃貸借関係の法的知識が求められる。それだけではない。ヒルによると、人々を賢明かつ友好的に人々を取り扱う力が必要である。彼女は厳格に職責を遂行した。しかし、そこには共感と信頼感もまた必要である。失職した人々のために仕事をみるける必要がある。病気や不幸のときには援助が与えられなければならない。すべての賃借人がカントリーサイドで一日を過ごせるような機会を組織化する必要がある。恒常的かつ首尾一貫した影響力のもとで、人々は品位ある住居を保つようになり、規則正しい生活を好むようになる。品位ある住居や規則正しい生活は今では常識であろう。しかし、それが常識とみなされるようになるにあたって、ヒルの思想と影響力が大きく作用したことを忘れることはできない。


  • DNB [by Helen Bosanquet]
  • Charles E. Maurice, Life of Octavia Hill as told in her Letters, 1913.
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