MAYHEW, Henry(1812-1887)


生涯

Henry Mayhew は1812年生まれ。Westminster School で教育を受けた後、法律家をしていた父のもとで法律家になるべく仕事をするが、1831年にこれを断念し、ジャーナリズムの世界へ入る。Figaro in London、The Thief などに記事を書いた。Mayhewは戯曲も書いている(The Wandering Ministrel,1834; But However, 1838)。1841年、彼は同僚の Mark Lemon とともにPunch Magazine を創刊。才能のあるライターやイラストレイターを募って精力的に仕事をした。創刊当初、Punch Magazine は週に6000部を売った。しかし、発行経費をまかなうには、週に10000部の売り上げが必要だった。1842年12月、Punch Magazine は Bradbury & Evans 社に売却され、編集にはMark Lemonが携わることになった。Henry Mayhewには主任顧問の職位が与えられた。Mayhewが最後に Punch Magazine に書いたのは1846年2月のことである。その後、Mayhewは鉄道雑誌 Iron Timesを創刊したが、結局失敗に終わり破産宣告を受けている。

ロンドン報告

1849年の夏、ロンドンにコレラが流行した。3ヶ月間に13,000人の死者を出した。9月24日、Mayhew は労働者居住地区 Bermondseyにおけるコレラの現況について記事を書き、Morning Chronicle 編集者の John Douglas Cook にたいして、イングランドならびにウェールズにおける労働諸階級の状態に関する調査を独自に行なってはどうかと提言している。Cookはこの提案を受けいれ、Mayhew は三人の補佐員とともに資料の収集を始めた。

この調査をもとにした最初の記事は、1849年10月18日に刊行された。ロンドンを担当したのは、もっぱら Mayhew で他の地域は補佐員たちが調査にあたった。これ以後、1850年までほぼ毎日、調査結果が記事になっている。Mayhewが書いたのは週に二本、残りは補佐員たちによって書かれた記事である。中には地方の無名のジャーナリストによって書かれたものもある。これらの記事は大きな注目を集めた。Economist はこの連載企画に批判的だった。というのも、この種の情報が公にされることで、すでに巨額になっていた慈善基金をさらに増大させ、依存的困窮者の数を増やし、自助を振興するのではなく扶助にたいする公衆の共感を増幅することになりかねないからである。Charles Kingsley、Thomas Hughes、F.D.Maurice といったキリスト教社会主義者はMayhewと Morning Chronicleを賞賛した。急進派も同じである。Northern Star や Red Republican といった新聞は、Mayhew 報告の抜粋を掲載した。連載記事は、1851年に London Labour and London Poor としてまとめられ出版された。貧困層の悲惨な状態に関する Mayhew の調査は、失業・餓え・疾病の労働諸階級にたいするインパクトを暴露した。

The Great World of London

1856年に、Mayhew はMorning Chronicle 紙上で新しい連載を開始した。The Great World of London である。ひと月に1本の割合で記事が掲載された。このシリーズは犯罪と刑罰を主題としたもので、これも1862年に The Criminal Prisons of London としてまとめられ出版された。また、London Character (1874)も既発表の記事をまとめたものである。Mayhewは多産な作家で、書いた本の主題やジャンルも多岐にわたる。The Good Genius (1847)とWhom to Marry (1848)は小説であり、German Lofe and Manners in Saxony (1864)、The Boyhood of Martin Luther (1865)は歴史書である。彼は1887年7月25日に死亡し、Kensal Green に埋葬された。

ニュージャーナリズム

Mayhew のLondon Labour and London Poor は、いわゆる「ニュージャーナリズム」の草分けである。ライターが実際に調査を行ない、足で集めた資料をもとに社会問題の実状を暴露するスタイルがこれ以後、増えていく。William Stead の London Maiden of Modern Babylon や Bitter Cry of Outcast London などは、その代表的なものである。Mayhew は盛んに統計データの数値にこだわり、経験的な社会調査風の記事を書いた。しかし、それによって科学性と客観性がとくに重視されたわけではない。その基調はセンセーショナリズムであった。連載記事をまとめた London Labour and London Poor は、表題が示すような包括的なロンドン描写ではない。そこに登場する London Poor は、いわゆる Street People であって、けっしてロンドンの労働諸階級を網羅したものではない。

貧困への視線

イーストエンドを中心とするロンドンの貧困地域は、中産階級以上の人々にとっては、未知の世界、異邦人の国、そして慈善と好奇心、恐怖の対象であった。 Mayhew の潜入報告記事は、そうした感覚をうまくとらえたといえるだろう。Mayhew は読者に、いわゆるslumming を疑似体験させたのだといえばわかりやすいだろう。Mayhew のロンドン報告は、1889年に刊行が開始される Charles Booth のロンドン調査の先駆とされることがある。たしかに、Booth もまた slumming の実践者であったし、その調査は純粋に学術的なものであったわけでもない。しかし、少なくとも Booth の念頭にあったのは、センセーショナルな報告記事を書くことではなく、できるだけ正確で立体的なロンドンの「フォトグラフ」をつくることだった。両者は企図そのものが異なっていたといえるだろう。

Mayhew のロンドン報告の歴史的意義は、やはりそれが巻き起こしたセンセーションにある。それはストリート・ピープルにたいする同情、興味、恐怖感など様々な情緒的反応を読者の間に巻き起こした。それまで植物学と化学を専攻していた Jevons は、ロンドンの労働者地区を歩き、London Labour and London Poorを読んだこときっかけになって経済学の研究をはじめたとされる。残念ながら、Mayhew の報告が何らかの社会立法を促したことはなかったが、ロンドンとその貧困という問題の所在を同時代の人々に明らかにしたことの意義はけっして小さくない。 Street People を中心にすえたその描写は、のちのresiduum 論を生みだす素地をつくったともいえる(Himmelfarb 1991)。


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