ソーシャル・ワーカー。父親はカルカッタ高等裁判所判事をつとめたジョージ・ロッホ。グレナルモンドのトリニティ・カレッジで学んだのち、ベリオル・カレッジ(オックスフォード)へ進んだ(1869年)。幼い頃から病弱でしばしば通学の中断を余儀なくされた。大学でもそれがハンディキャップになったとされる。1870年に古典学でサード・クラス、1873年に近代史でセカンド・クラスを取得した。彼のチューターはエドウィン・パーマー、トマス・ヒル・グリーンであった。ロッホはグリーンの人柄と哲学から多大な影響を受けた。グリーンとは生涯にわたって親交を結んだ。ベリオル時代の親友はアンドルー・ブラッドリ、バーナード・ボーザンケト、A.L.スミスらである。ロッホは当初、インドで官吏として仕事をしようと考えていたが、それに耐えられる健康状態ではなかった。ベリオル時代にソーシャル・サービスの分野に進もうと希望したこともあった。これはグリーンの教育やアーノルド・トインビーからの影響である。ロンドンへ出ようと決意した背景にはそうした事情があった。1873年、ロッホは王立外科カレッジの職員となり、二年間そこで働いた。
外科カレッジに勤務しているあいだ、ロッホは社会問題に強い関心をもつようになる。そして、慈善組織協会のイシュリントン支部の名誉幹事に就任する。 1875年には慈善組織協会評議員に任命された。慈善組織協会は1869年に設立され、当初は小規模で影響力もほとんどなかったが、次第に人々の支持を集めるようになっていた。協会の主たる目的は、欠乏状態にある人々の自立を支援し、貧困層の生活状態を改善し、協働精神に裏打ちされたチャリティの理想を浸透させることにあった。協会が打ち出した施策は、ロンドン域内における慈善活動のコーディネイトである。公的機関や民間団体による支援や慈善活動の「重複」を予防する施策である。ロッホは執行能力に優れていた。スタッフと資金が不足するなかで、彼は膨大な仕事や活動を効率的にこなしていった。ロッホは情熱的な理想主義者であり、その理想主義は強いコモンセンスに支えられていた。慈善組織協会の慈善システムは、個人との対面を原則とし、支援申請者に関する周到な調査が支援の前提であった。各事例ごとにファイルが作成され、調査結果は恒久的に保存された。慈善組織協会はロンドン各地域に支部を設立し、新団体や既存団体が協会に糾合されたケースもある。また、海外の同種の団体とも交流を行ない、とくに米国の団体やル・プレイやエドモンド・デモリンらのフランスの団体との交流が活発に行なわれた。
協会の慈善活動は科学的な原則にたって展開されたが、それはけっしてインパーソナルな性格を帯びていたわけではない。ロッホの方法は救済申請者のすべてをボランティア活動家を通じて取り扱うというものであった。活動家たちはおもに教育を受けた男女であり、その多くは有閑階級であった。彼らは多くの時間を調査活動ならびに訪問活動に費やした。人格的にすぐれ高邁な情熱をもったロッホの影響で、活動家たちもまた同じような情熱をもつようになった。 慈善組織協会の影響は立法政策にもみることができる。ロッホは精力的にパンフレットを書き、報道機関に書簡を送った。また、公衆の前で講演し、中央政府、地方政府にも積極的に接触した。彼は多くの有力者を慈善組織協会との連携に導いた。こうした努力は多くの議会法令として結実した。たとえば、1913年の知的障害者法、1918年の児童福祉法などである。もう一つ忘れてはならない成果は、病院内のアルモナー制度の導入である。院内アルモナーは自発的な奉仕者といった意味であり、患者たちはその能力に応じて何らかの寄与が求められる制度である。ロッホはこの制度を中世的慣行の復活であるとみなしていた。現在でも、このシステムは広く実施されている。
1896年、ロッホはアメリカへ渡り、3ヶ月間をそこで過ごした。この間、ロンドン慈善組織協会と性格がひじょうによく似た「チャリティ連合 (Associated Charity)」を訪問した。アメリカにおける慈善活動との接触は、生涯続けられることになる。また、ロッホはいくつかの王立調査会でも委員として積極的な役割を果たした。1893年から1895年の老齢貧困者問題調査会、1904年から1908年の精神薄弱者問題調査会、1906年から1909年までは救貧法問題調査会の委員をつとめた。救貧法問題調査会の多数派答申にロッホの署名があるが、彼はこの答申のかなりの部分を執筆した。多数派答申の提案は当初は注目されなかったが、1929年の地方行政法(Local Government Act)や1930年の救貧法にその影響をみることができる。
政治的にはリベラルな立場をとっていたロッホは、1906年から1914年の自由党政権による社会立法にはほとんど共感をもっていなかった。ロッホはこれらの政策について、責任の観念を個人や家族から剥奪し、官僚制や国家財政に責任を引き受けさせるものだとして、これを厳しく批判した。彼は社会活動家としてはもちろん思想家および教育者としても高く評価された。彼は1904年から1908年まで、キングズ・カレッジ(ロンドン)のトゥック経済科学および統計学教授をつとめ、1905年にはオックスフォード大学から名誉法学博士の称号を得ている。
1914年10月、ロッホは病気を理由に慈善組織協会の幹事職を引退した。在任期間は実に39年に及んだ。協会はロッホに年金給付を申し出たが、彼はこれを断った。1915年、ナイトに叙せられ、1923年1月23日に息を引き取った。
ロッホは強靭な知性と人格の持ち主でありながら、性格は柔和で他の人々の意見によく耳を傾け、かつ寛容であった。オックスフォード時代、彼はラスキンの下で学んだことがある。その影響からか、彼は生涯に渡って絵画に強い関心をもち続けた。彼は哲学的急進派であり、ジョン・ステュアート・ミルの学徒であった。そして、ヴィクトリア時代の偉大なフィランスロピ活動を実践面でも理論面でも代表する人物であったといえる。
ロッホの主要著作にHow to help Cases of Dstress(1883)、Charity and Social Life(1910)がある。後者は『エンサイクロペディア・ブリタニカ』(第10版、1902年)に執筆した”Charity and Charities”を敷衍させたものである。また、彼の論文のいくつかを収めたA Great Ideal and its Championが1923年にサー・アーサー・クレイの編集によって出版された。ロッホは詩集Things Within(1922)も出版している。
ロッホは1876年にソフィア・エマ(1934年に死去)と結婚した。エマはインド官僚の娘である。エマとの間に一男一女をもうけた。