田園都市運動の創始者で、LetchwothおよびWelwynの田園都市を建設した。1850年、ロンドンに菓子屋の一人息子として生まれる。4 歳から15歳まで私立の寄宿学校で教育を受けた。学校卒業後はロンドンで、証券業、流通業、事務弁護士事務所等で働き、多彩な職業経験を積んだ。独学で速記術を習得したのもこのころのことである。短い期間ではあったが、組合教会派の牧師として著名なジョゼフ・パーカー博士の私設秘書として働いた経験もある。
1872年(22歳)、ハワードはニューヨークへ渡り、ネブラスカで数ヶ月を過ごしたのち、シカゴへ移り、そこで正規の法廷速記者となる。このころの彼は宗教心の厚い仲間に囲まれていた。J.R.Lowell、Walt Whitman、R.W.Emersonといった聖職者ではない信仰家の強い影響下にあった。「すべて価値は、われわれの本性がもつ霊的[精神的]要素にどれだけ影響を与えうるかによって評価されなければならないのであり、物質的な諸条件はそうした影響力があってこそ、広範かつ恒久的に改善される」とする彼の認識は、こうした交流の中で培われたものといえる。
1877年にハワードは帰国し、Gurney & Sons社に速記者として採用され、正規の議会担当記者となった。議会での仕事に加えて、司法関係の速記者の仕事も独自にはじめている。その後、 William Treadwellのパートナーとなり裁判所近くにオフィスをもった。Treadwellとのパートナーシップが解消して以後も、1920年に引退するまでこの仕事は続けられた。
1898年、ハワードはEdward BellamyのLooking Backwardを読んだ。これは失神して気がついたら西暦 2000年の世界にいたという人物の経験が書かれた一種のSFもので、西暦2000年のアメリカ合衆国が国家社会主義のシステムのもとで、理想的な社会に変容しているといったストーリーが綴られている。ハワードはこれを読んでいたく感動し、自分も新しい文明の建設に役立とうと決意したとされる。利己心ではなく共同社会への献身に基礎づけられた新しい文明である。Tomorrow: A Peaceful Path to Real Reformはその最初の一歩として書かれたものである。ハワードはこの本の一部分を友人たちに読んでもらい、ロンドンを中心に本の内容をレクチャーすることまで行なっている。しかし、ある友人からの50ポンドの資金援助がなければ、この本が日の目をみることはなかっただろう。この本は1902年にGarden Cities of Tomorrowとして再版された。
ハワードがめざしたのは、第一に、大都市の形成に伴って生まれた密集と不健康な環境を改善すること、第二に、非都市地域の過疎化の打開策を発見することである。人間が道徳的・精神的にまっとうな発達をとげるためには、カントリーサイドとその自然と触れ合うことが不可欠だと彼は考えていた。彼にいわせると、イギリスの都市生活者の大部分の生活環境は、身体に害悪を及ぼすだけでなく、その精神や道徳をも蝕んでいる。なぜ都市開発はそうした結果を招くのか。それは、都市の開発そのものが私的な収益の獲得だけしか考えない地主たちの営利活動によって、無秩序に進められているからに他ならない。解決策はそうした地主の営利活動を規制することによっては得られないだろう。住民の利得(profit)ではなく住民の関心事(interest)に沿って新しい「まち」をつくることによってしか、事態は改善できないであろう。職住接近を基本とするニュータウンをつくるためには綿密な計画が必要である。その規模は限定され、市街は自然豊かなベルト地帯によって区切られ、住民の都市生活の便宜がはかられると同時に、カントリーサイドや自然に容易にアクセスできるように設計されなければならない。非市街地の住民もまた、農産物を都市部のマーケットで流通させることができるようになり、都市の便益を容易に享受できるようになる。ハワードはこれらの「まち」をgarden citiesと呼んだ。自然豊かなベルト地帯に隔てられて複数の「まち」が、あたかもひとつの庭園の中に配置されているかのような、そういった都市群というような意味である。ハワードのプランでもっとも重要な部分は土地の所有形態である。「まち」は自らが位置する土地を直接的もしくは間接的に所有していなければならない、とハワードは考えた。土地は借入金によって保有され、信託方式で管理される。彼は地価の急速な上昇を見込んでおり、容易に借入金の償還が可能であるばかりか、社会的な利益還元すら難しくはないとみていた。地価の変化に応じて地代の頻繁な改訂も必要である。
自著の出版後、すぐに彼は自分のプランにたいする支援を求める活動を開始した。1899年に「田園都市協会(Garden City Association)」を設立した。当時、ハワードはまったく社会的な影響力をもたなかった。資金を自ら提供できるほどの財力などもちろんなかった。活動の成果がみられるようになったのは1903年頃のことである。ハートフォードシャーのレッチワースで田園都市を建設するために必要な土地を確保できるだけの資金が集まった。計画の一部分は実務的な理由から変更を余儀なくされたけれども、その本質的な部分はほぼ実現したといってよい。
土地所有の原則は若干の修正を余儀なくされた。開発会社への配当は年間5パーセントを超えない累積配当に制限されたからである。また、剰余金はすべてまちの利益に資する目的で流用されうるものとされた。レッチワースの田園都市はハワードが予測したほど急速に成長しなかったものの、1934年には人口15000 人の職住接近の市街地を形成するようになった。1923年以後は、毎年、出資者に満額の配当金が支払われるようになった。しかし、会社設立当初の累積遅配金の支払いに相当額があてられた。
1919年、かねてから田園都市建設に最適であると考えられていたハートフォードシャーのウェルウィンの土地が売りに出された。これを知ったハワードは、すぐに友人たちから資金を募り、手付金を打った。それから12年、農村地域だったウェルウィンは人口約 10000万人を数える田園都市に生まれ変わった。
田園都市建設運動は、マンチェスター市がウィテンショウにハワードの原則に沿ったニュータウンの計画を決めたことで、新たな段階に入った。ウィテンショウはレッチワースやウェルウィンと次の二つの点で大きく異なっていた。第一に、このプランは私企業ではなく強力な自治体の財政援助に支えられていた点である。家屋はマンチェスター市民にたいする住宅政策の一環として、市が提供するというものであった。計画の実現へ向けて動き出したのは1933年のことであるが、1934年には人口20000万人を擁するまでになった。
Garden Cities of Tomorrowは多くの言語に翻訳された。また、田園都市建設を目的とした団体がヨーロッパ各国、アメリカ合衆国でいくつも設立された。1909年には「国際田園都市計画協会」が設立され、ハワードはその会長に就任し、生涯、その職責にあった。多くの国で田園都市が建設された。一般に、開発そのものが公共的に行なわれた点を除けば、これらの田園都市の多くは、既存の市街区を計画的に編成しなおしたものであって、ハワードの田園都市構想の特徴を必ずしも共有していたわけではない。しかし、ニュージャージーのレッドバーンのように、ハワードの原則にかなり忠実につくられた都市もある。ハワードの原則との興味深い相違点は、レッドバーンが特に交通渋滞から生ずる危険や不都合の最小化に配慮していた点である。
第一次世界大戦が終わると、ロンドンをはじめ、各地で都市化が予測を超えて急速に進み、急速な都市化に伴う生活環境の悪化にたいするハワードの警告が、誰の目にも明らかになっていった。この間、政府は田園都市開発への誘導の可能性を追求することになる。1919年、住宅法 (Housing Act)が改訂され、田園都市の建設と開発を促進する住宅・都市計画関連法が相次いで制定された。1934年には、厚生大臣によって指名された諮問委員会が、田園都市もしくはニュータウン建設を促進する施策の可能性と必要性について審議を開始した。
ハワードの影響は、田園都市構想においてみられるだけではない。彼の影響は広く都市計画の一般的な問題の解決にも重要な影響を及ぼした。ハワードの思想は、無秩序な都市の拡大に人々の注意を向けさせた。すべて都市開発には計画性が必要だという考え方が広く共有されるようになった。レッチワースおよびウェルウィンの田園都市は、計画性がいかに重要であるかをあますところなく示していた。二つの田園都市にみられる利点は、既存の都市を再開発するさいにも取り入れられるべきことは明白であった。こうして、ハワードの影響は多くの都市計画の中に浸透していった。空間を生かしたレイアウト、第一次世界大戦後につくられた住宅には、レッチワースの田園都市の影響をみることができる。
ハワードは自らの理想が実現されるさまをその生涯のうちに目の当たりにすることができた。こうした幸運に恵まれる理想主義者は少ない。しかし、ハワードの究極的な目標は、都市化に歯止めをかけ、際限のない都市化にとって代わる新しい都市開発のあり方を提示することにあった。この究極目標はなお達成されてはいない。おそらくその背景には二つの困難な要因があったといえる。いずれもハワードが予見できなかったものである。第一に、住民や企業を新しいまちに引き寄せることはそれほど容易ではない。第二に、田園都市の建設には莫大な初期投資が必要である。マンチェスターにおけるウィテンショウ開発の事例には、レッチワースおよびウェルウィンの事例よりも、幾分かは期待を抱かせる要素がある。しかし、多くの大都市自治体がニュータウン建設の責任を進んで引き受けるかというと、これもかなり困難である。
ハワードは生涯、経済的には恵まれなかった。レッチワースおよびウェルウィンの開発にさいして彼が受け取った報酬はそれほど多額ではなかった。彼は 70歳になるまで自分と家族の生計を維持するために速記者としての仕事を続けざるを得なかった。彼はあまり金銭的な利得には関心がなかったようである。彼は個人的な野心、個人的な成功にはほとんど関心を示さなかった。彼は自分のアイデアの正しさをかたく信じていた。彼を突き動かしていたのは、情熱的な利他心だったとさえいえる。彼は人々を鼓舞する能力に長けていた。彼の情熱はすぐさま人々に感染し、その目的の純粋さは人々の信頼をすぐさまかちとった。彼はプロフェッショナルな都市計画家でもなければ投資家でもなかった。彼は都市計画化や投資家に、そのアイデアが十分に実現可能だと確信させることができたのである。彼は謙虚で良識ある人であった。計画の実施にあたっては、多くの人々のアドバイスによく耳を傾けた。若い頃、彼はタイプライターの改良に多大な時間を費やしたことがある。彼は晩年になって、再び速記用タイプライターの開発に熱中している。彼の仕事は国際的な広がりをもち、多くの外国の知己を得た。そうしたこともあって、彼はエスペラント語を身に付けた。若い頃、彼はケニントン球場でクリケットを観戦するのが好きだった。晩年にはチェスを楽しんだ。
1924年、ハワードはその公的な功績を称えられ勲爵士団(O.B.E)の称号を得た。さらに1927年には勲爵士に叙せられた。1928年5月、ハワードはウェルウィン田園都市の自宅で息をひきとった。